「オリーブの林をぬけて」はどんな映画?
今回、ご紹介するのは「オリーブの林をぬけて」です。
この作品は1994年製作のイラン映画で、監督はアッバス・キアロスタミです。
この作品はアッバス・キアロスタミ監督ジグザグ道三部作と呼ばれているシリーズの3作目の作品です。
3作品とも、イラン北部のコケール村を舞台にしていることから、「コケール・トリロジー」とも言われています。
目次
作品情報
監督 | アッバス・キアロスタミ |
---|---|
公開年 | 1994年 |
上映時間 | 103分 |
製作国 | イラン |
キャスト | ホセイン・レザイ |
あらすじ
大地震に見舞われたコケール村で映画撮影が行われており、村人たちの中から出演者が選ばれていました。
地震の翌日に結婚した夫婦役として、妻役に学生のタヒレが、夫役に、雑用係だったホセインが選ばれました。
いざ撮影が始まると、妻役のタヒレはセリフを話しません。そのため、その日の撮影は中止になります。
2人の間に何かあると感じた監督は、2人の関係についてホセインに話を聞きました。
すると、以前、ホセインがタヒレにプロポーズをしたということがわかります。
ホセインは、その時、両親に門前払いされていたので、直接、本人から返事を聞きたいと監督に打ち明けます。
そして・・・
アッバス・キアロスタミ監督
代表作
友だちのうちはどこ? | (1987)ジグザグ道三部作(コケールトリロジー) |
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そして人生は続く | (1992)ジグザグ道三部作(コケールトリロジー) |
オリーブの林をぬけて | (1994)ジグザグ道三部作(コケールトリロジー) |
桜桃の味 | (1997)カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞 |
風の吹くまま | (1999)ヴェネツィア国際映画祭審査員賞特別大賞受賞 |
アッバス・キアロスタミ監督は国際映画祭の常連監督でイランを代表する監督です。日本の映画監督、小津安二郎のファンを公言しており、彼の作品には小津監督の影響が随所で見られます。
2012年公開の日本・フランス共同製作作品「ライク・サムワン・イン・ラブ」は、日本が舞台となっており、全編日本語の作品です。また、2013年には旭日小綬賞を受賞しており、日本と縁の深い監督です。
2016年、76歳で生涯を閉じておられます。
ジグザグ三部作/コケールトリロジー
三部作である、「友だちのうちはどこ?」と「そして人生はつづく」は、この作品とつながりがあるので、前二作をご覧になってからこの作品を鑑賞することをおすすめします。
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ウサコックのおいしさ(おもしろさ)指数
3ウサコックです。(最高4ウサコック)
この作品の見どころは、何といってもラストシーンだと思います。
そのラストシーンをどう受け取るかによって、作品の印象がガラリと変わります。
観ている者に結末を想像させる作品は、個人的には好きな作品です。
カプサ君の激辛(マニア度)指数
カプサ君の数が多いほど、マニア向けの作品となっております。
3カプサ君です。(最高4カプサ君)映画好き向けの作品です。
男性が好意を持っている女性をくどくストーリーなので、物語自体はシンプルで見やすいです。
ただ、淡々とお話は進むので、退屈に感じる方もいらっしゃると思います。
感想と考察(ネタバレあり)
その①
「そして人生はつづく」のスピンオフ作品
この作品は、前作「そして、人生はつづく」の1シーンをクローズアップして描いた作品です。
「そして、人生はつづく」で登場した、大地震の翌日に結婚した夫婦役の2人は、実際に夫役の男性が妻役の女性にプロポーズして「財産も学歴もない」との理由で断られました。
それを聞いたキアロスタミ監督は、その話をもとにこの作品を創りました。
また「友だちのうちはどこ?」に出演していたババク・アハマッドプール君、アハマッド・アハマッドプール君が出演しています。
前作「そして、人生はつづく」は、震災後、ババク・アハマッドプール君に会いに行くお話なのですが、本人と出会うことはありませんでした。
前作を観て感じた、「ババク・アハマッドプール君はどうしているんだろう」というモヤモヤは、今作で解消されました。
そして、成長したアハマッドプール兄弟を観て、「大きくなったなあ」と親戚の子供に久しぶりに会ったような気持ちになりました。
その②
イランの結婚事情
イランでは、自由に恋愛をするのは難しく、結婚の仕方も日本とは異なります。
まず、男性側の女性の親族(母親や、姉妹)が相手の女性の候補を選び、男性の同意が得られると、女性の自宅に結婚を申し込みにいきます。
そこではまだ、当人同士が顔を合わすことはありません。まずは男性側の親族の女性数人と相手の女性が面会します。ここで女性は、男性の親族をもてなし、親族からの質問に答えます。
双方が相手のことを気に入ると、ここで初めて男性が同席した話し合いが催されます。
そして、当人同士が気に入ると何度かの面会を経て結婚となります。
今はそういった風習は減っているそうなのですが、コケル村のような田舎では、いまだに残っていると思われます。実際ホセインは、母親や祖母に門前払いされています。
日本でいう「お見合い結婚」なのですが、男性側の女性親族の意見が重視されるという点が、日本とは違う点でしょうか。
イランでは、当人同士による「恋愛結婚」自体、考えられないことなのかもしれません。
その③
ラストシーンの意味
ホセインは、タヒレにプロポーズし、必死にタヒレを口説きます。
ラストシーンでは、ロングショットで、タヒレの後を追いかけていくホセインの様子を映しだしています。
2人が米粒くらいの大きさになったあたりで、それまでホセインが話しかけても無視し続けていたタヒレが足を止めます。
そして、2人は何か言葉を交わし、ホセインは走ってこちらに戻ってきます。
そこで物語は終わります。
最後、タヒレとホセインは何を話したのでしょうか?
ホセインが走って戻ってきているので、それはホセインにとってはうれしい返答だったと推測します。
しかし、プロポーズを了承したという話ではないと思います。もし、タヒレが「ホセインと結婚したい」と思っていたのであれば、「OK」のサインを出すチャンスはいくらでもありました。
撮影中もそうですし、ホセインがお茶と一緒に置いた花を持って帰るだけでも、「OK」のサインとしては十分なはずです。しかし、そういった行為はしませんでした。
では、タヒレはなんと答えたのでしょうか?
ハッピーエンドと、バッドエンドと両方で考えたいと思います。
その④
ハッピーエンド
ハッピーエンドとして考えられるタヒレの返答は、「あなたのことをもっと知ってから返事がしたい」というような答えだと考えます。
その返答を推測するには、まず、タヒレはどんな女性かを考察しないといけません。
タヒレは、両親を地震で亡くし今は祖母と暮らしています。教育をまともに受けれないホセインのような人もいることを考えると、学校に通っているタヒレは、比較的裕福な家庭で育っていると推測します。
映画出演にあたり、タヒレは友人から服を借りてきました。しかしその服は作品に合わないという理由で、スタッフのシヴァさんからNGが出たのにも関わらず、「一度その服を着た姿を見て欲しい」と食い下がります。
シヴァさんは「どんな教育をしているの?」と祖母にクレームを入れています。
このシーンから、タヒレは頑固だということと、決して言われたことを従順に従うタイプではなく、自分の意見をはっきり言う少女だということがわかります。
また、終盤、「ホセインさん」というセリフを、頑なに「ホセイン」と言い続けます。
これは、イランでの家庭内における女性蔑視に対するささやかな抵抗のように感じます。
こういったところから、タヒレは、「男女不平等」や、「年上の言うことは絶対」といったイラン国内における慣習を受け入れるのに抵抗がある、「自己主張の強い女性」という印象を受けました。
ホセインは、自分の想いをタヒレに告げる中で、「靴下はどこだみたいな、あんな言い方は自分はしない」とか、「お茶は僕が入れたり、君が入れたり、それが結婚だ」など、亭主関白が当たり前という夫婦関係を否定するような発言をしていますし、また、「年寄りには、若者の気持ちがわからない」や「君の答えを知りたい」などと、タヒレのことを尊重をしたホセインの発言の数々は、タヒレの心を掴むには充分だったはずです。
しかし、タヒレはまだ結婚まで考えていないと思います。もし、結婚相手を自分で選ぶとなれば、相手のことをもっと知らなければならないからです。
ですので、タヒレは「もっとホセインのことを知ってから返事をしたい」とホセインに言ったのではないでしょうか。
現状、貧富の差がある結婚はできない状況です。もし、結婚を実現するとすれば、当人同士の恋愛を経て、家を出るしか選択肢はないと思います。タヒレは両親を亡くしていますし、ホセインも独り身なので、今の生活を捨て新たな環境に身を置くことは、比較的容易だと思います。
同じ身分の者同士しか結婚できないことに憤りを感じるホセインと、女性の立場が低いことに疑問を感じているタヒレは、現状の慣習に不満を持っているという共通点があります。そんな2人がタブーとされている「自由な結婚」への道を選んだとしても不思議はないでしょう。
その⑤
バッドエンド
バッドエンドとして考えられるタヒレの返事は、「ホセインを遠ざけるために、タヒレはその場しのぎのことを言った」です。
ホセインは思い込みの強い男性です。
「タヒレは自分のことを好きでいてくれる。ただ、母親や祖母が反対しているだけだ」と考えています。
結婚を申し込んだが、母親にひどい仕打ちをされ、「もっと僕に優しくしてたら、彼女の家族は地震で死なずにすんだだろう」とか「僕の悲しみが地震を引き起こした」と話しています。
ヤバいくらい自己中心的な考えです。
頑固な性格で、家もなく、自分のミスは認めず人のせいにして、貧富の差に対し憤りを感じ、生きがいは「タヒレと結婚すること」だけ、そんなホセインの求婚を断ったら、自暴自棄になり、タヒレを殺して自分も命を絶つかもしれません。
ホセインには、そのような怖さを感じます。
そんなホセインに付きまとわれ、しかも周りには人もいない田舎道で、「お墓で僕を見ていた君の目は何だったんだ」などと言いながら後ろから付いてこられたら、その思い込みの強さにタヒレが恐怖を抱くことは当然のことではないでしょうか。
適当なこと(ホセインを喜ばすようなこと)を言って、ストーカーと化したホセインを遠ざけたとしても、それは仕方ないことだと思います。
最後に
現実では、夫役の男性は、「財産も学歴もない」との理由で断られました。
監督は、フィクションの中では、この2人に結ばれて欲しいという想いがあったように思えます。
しかし、見る角度を変えると、ストーカーに付きまとわれる女子生徒の話にも見えます。
この作品は、男性の視点から見るか、女性の視点から見るかによって、大きく印象が変わる作品だと感じました。
イランと日本との慣習の違いが、2つの意味を持つ作品のように感じてしまう原因なのかもしれません。
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